「史上最強のMade in JAPAN」と称され、日本の格闘技界を牽引し続けている堀口恭司選手。彼が再び世界最高峰の舞台であるUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)へ挑戦することになり、その過去の実績に改めて注目が集まっています。多くのファンが気になっているのは、やはり彼がかつてUFCに残した驚異的な戦績ではないでしょうか。
実は、堀口選手が最初のUFC挑戦で喫した黒星は、たったの1つだけです。しかも、それは当時の絶対王者に対するタイトルマッチでの敗戦でした。なぜ彼がこれほどまでに評価され、世界中のファイターから一目置かれているのか。その理由は、単なる勝敗の数だけでは語り尽くせません。
この記事では、堀口恭司選手がUFCで残した全戦績を詳しく振り返るとともに、伝説となっているデメトリアス・ジョンソン戦の真実、そして一度はUFCを離れた理由や、アメリカン・トップチームでの進化について深く掘り下げていきます。これから始まる彼の新たな挑戦をより深く楽しむために、ぜひ最後までお付き合いください。
堀口恭司のUFC戦績一覧と圧倒的な勝率データ
まずはじめに、堀口恭司選手がUFCで残した具体的な数字と、その内容について見ていきましょう。格闘技の世界では、UFCで1勝することさえ非常に困難と言われていますが、堀口選手の記録は群を抜いています。
2013年のデビューから2016年の契約満了まで、彼がオクタゴン(金網)の中で見せたパフォーマンスは、当時のフライ級戦線に大きな衝撃を与えました。ここでは、その輝かしい記録を詳細なデータとともに解説します。
7勝1敗という驚異的なハイアベレージ
堀口選手の第1次UFC時代の戦績は、通算8戦して7勝1敗です。勝率は実に87.5%を誇ります。世界中から猛者が集まるUFCにおいて、これほど高い勝率を維持できる選手は、チャンピオンクラスを除けば極めて稀です。
勝利の内訳を見てみると、KO(ノックアウト)やTKOによる勝利が3回、判定勝利が4回となっています。特筆すべきは、判定になった試合でも、ジャッジ全員が堀口選手を支持する「ユナニマス・判定」が多く、危なげない試合運びを見せていた点です。打撃による爆発力だけでなく、試合全体をコントロールする技術の高さが数字にも表れています。
唯一の敗北は、当時「パウンド・フォー・パウンド(全階級を通じて最強)」と謳われた王者デメトリアス・ジョンソンに対するものであり、それ以外のランカーたちには一度も負けていません。この事実が、彼の実力が当時から世界トップレベルにあったことを証明しています。
【UFC第1次参戦時の主な戦績一覧】
・2013年10月19日 vs ダスティン・ペイグ(TKO勝ち)
・2014年5月10日 vs ダレル・モンタギュー(判定勝ち)
・2014年9月20日 vs ジョン・デロス・レイエス(TKO勝ち)
・2015年1月3日 vs ルイス・ゴーディノ(判定勝ち)
・2015年4月25日 vs デメトリアス・ジョンソン(一本負け)※タイトルマッチ
・2015年9月27日 vs チコ・カムス(判定勝ち)
・2016年5月8日 vs ニール・シーリー(判定勝ち)
・2016年11月19日 vs アリ・バガウティノフ(判定勝ち)
衝撃的なUFCデビュー戦と連勝街道
堀口選手のUFCデビュー戦は、2013年10月に開催された「UFC 166」でした。対戦相手はダスティン・ペイグ。この試合で堀口選手は、第2ラウンドに強烈なパウンドを浴びせてTKO勝利を収めます。
当時の堀口選手はまだ23歳という若さでしたが、その伝統派空手をバックボーンとした独特なステップと、飛び込みざまの打撃は、現地の解説者やファンを大いに驚かせました。「日本からとんでもない才能がやってきた」と囁かれるようになるまで、時間はかかりませんでした。
その後も連勝を重ね、デビューからわずか1年半に満たない期間で4連勝をマークします。特にランカーであったルイス・ゴーディノ戦での完勝は、タイトル挑戦への決定打となりました。UFCという過酷なサバイバルレースの中で、一度も足踏みすることなくトップコンテンダーまで駆け上がったのです。
ランカーたちを圧倒した安定感のある強さ
堀口選手の強さは、一発のパンチ力だけではありません。レスリング能力の高い外国人選手たちを相手にしても、テイクダウン(倒されること)を許さない腰の重さ、あるいは倒されてもすぐに立ち上がるリカバリー能力が際立っていました。
例えば、UFCでのラストファイトとなったアリ・バガウティノフ戦。バガウティノフもまた、タイトル挑戦経験を持つ強豪レスラーでしたが、堀口選手は終始圧倒しました。相手に何もさせず、完封勝利を収めたこの試合は、彼の完成度の高さを象徴する一戦です。
「誰と戦っても自分のペースで試合ができる」という安定感は、UFCの関係者からも高く評価されていました。連勝を重ねる中で見せたこの安定感こそが、後のRIZINやBellatorでの王者獲得につながる土台となっていたことは間違いありません。
伝説となったデメトリアス・ジョンソン戦の真実

堀口恭司選手のUFCキャリアを語る上で、避けて通れないのが2015年4月に行われたフライ級タイトルマッチです。対戦相手は、「マイティ・マウス」の愛称で知られ、UFC史上最多防衛記録を持つデメトリアス・ジョンソン(DJ)。この一戦は、敗れはしたものの、堀口選手の名を世界に知らしめる歴史的な試合となりました。
試合結果は「5ラウンド4分59秒、腕ひしぎ十字固めによる一本負け」。試合終了のブザーが鳴るわずか1秒前の出来事でした。ここでは、そのドラマチックな試合展開と、そこから得たものについて深掘りします。
「絶対王者」に挑んだ若き日の挑戦
当時、デメトリアス・ジョンソンは無敵の強さを誇っていました。スピード、テクニック、スタミナ、全てにおいて完璧と言われ、対戦相手がいないとまで言われる状況でした。そんな絶対王者に対し、UFC参戦から4連勝の勢いに乗る24歳の堀口選手が挑戦者として選ばれました。
下馬評では圧倒的に王者有利でしたが、堀口選手は全く臆することなくオクタゴンに向かいました。彼の武器である「見えない打撃」が、鉄壁の王者にどこまで通用するのか。世界中の格闘技ファンが固唾を呑んで見守る中、試合は始まりました。
序盤、堀口選手特有の遠い間合いからの飛び込みは、王者DJを警戒させるに十分でした。しかし、DJもまた異次元のスピードで対応し、試合はスリリングな展開を見せます。お互いが目まぐるしく動く、軽量級ならではのハイレベルな攻防が繰り広げられました。
残り1秒の悲劇と称賛
試合は5ラウンド(25分間)をフルに使った総力戦となりました。ポイントでは王者がリードしていましたが、堀口選手も最後まで諦めず、一瞬の隙を狙って攻撃を繰り出し続けました。王者のテイクダウンに対しても粘り強く対応し、決して心を折られることはありませんでした。
しかし、ドラマは最後の最後に待っていました。最終第5ラウンドの終了直前、DJがテイクダウンに成功し、素早くマウントポジションを奪います。そこから流れるような動きで腕十字を仕掛けました。
堀口選手は必死に耐えましたが、完全に極まった状態で試合終了のブザーとほぼ同時にタップ(降参)を余儀なくされました。記録は4分59秒。あと1秒耐えていれば判定決着となっていたところでの劇的な幕切れです。
この敗戦は悔しい結果ではありましたが、同時に「絶対王者を相手に最後まで戦い抜いた」という事実が、堀口選手の評価を逆に高めることになりました。DJ自身も試合後、「彼は若くて才能がある。将来必ずチャンピオンになるだろう」と最大級の賛辞を送っています。
敗戦から得た大きな学びと進化
この一戦は、堀口選手にとって大きな転機となりました。世界最高峰の壁を肌で感じたことで、自分の足りない部分が明確になったからです。特に、組技の展開やスクランブル(寝技の攻防)における細かな技術の差を痛感したといいます。
「ただ強いだけでは勝てない。全てにおいて完璧でなければならない」という意識が、その後の彼のトレーニングに対する姿勢をさらにストイックなものに変えました。この敗戦があったからこそ、後のRIZINバンタム級王者、Bellator世界バンタム級王者への道が開けたと言っても過言ではありません。
悔しさをバネに、強くなるための環境を求めてアメリカへの移住を決断したのも、この試合が大きなきっかけの一つでした。あの「残り1秒」は、堀口恭司というファイターを完成させるための重要なピースだったのです。
なぜ勝ち続けていたのにUFCを離脱したのか?
デメトリアス・ジョンソン戦での敗北後、堀口選手は再び3連勝を記録しました。ランキングも上位を維持し、再びタイトル挑戦が見えてきた時期です。しかし2017年、彼は突如としてUFCとの契約を更新せず、日本のRIZINへ戦いの場を移すことを発表しました。
「UFCで勝っているのになぜ?」と多くのファンが疑問を抱きましたが、そこには彼なりの深い考えと、格闘技界全体を見渡す広い視野がありました。
日本格闘技界への熱い想い
最大の理由は、「日本の格闘技を盛り上げたい」という強い使命感でした。当時、日本の格闘技ブームは下火になりつつあり、かつてのPRIDEのような熱気は失われていました。テレビでのゴールデンタイム放送も減少し、素晴らしい選手がいても世間に知られる機会が少なくなっていたのです。
堀口選手は、「自分が日本に帰って活躍することで、また格闘技に注目が集まるのではないか」と考えました。世界最高峰のUFCで戦うことは名誉ですが、それ以上に、自分の生まれ育った国の格闘技熱を再燃させたいという想いが勝ったのです。
「自分がスターになって、子供たちが憧れるような舞台を作りたい」。その純粋な想いが、安定した地位を捨てて日本へ戻るという大きな決断を後押ししました。
UFCフライ級の不遇な環境
もう一つの要因として、当時のUFCにおけるフライ級(最軽量級)の扱いの悪さがありました。実力者が揃っているにもかかわらず、重量級に比べて人気が低く、大会のメインイベントに組まれることが少なかったのです。
さらに、「フライ級廃止論」すら噂されるほど、UFC側がこの階級に力を入れていない時期でもありました。試合をしたくてもなかなかオファーが来ない、勝ってもファイトマネーが上がりにくいという状況に、プロファイターとしての難しさを感じていました。
「試合間隔が空きすぎて、モチベーションを保つのが難しい」という発言も当時のインタビューで残しています。もっと頻繁に試合をして、自分の強さを証明したいという欲求が、コンスタントに試合が組めるRIZINへの移籍を魅力的に感じさせた要因の一つです。
師匠・山本”KID”徳郁の影響
堀口選手の師匠である故・山本”KID”徳郁さんの存在も忘れてはいけません。KIDさんは日本の格闘技ブームの中心にいたカリスマであり、堀口選手はずっとその背中を追ってきました。
師匠が作り上げた熱狂をもう一度日本で再現したい、師匠のジム「KRAZY BEE」の名を背負って日本で戦いたいという気持ちも強かったはずです。日本に戻ることは、決して「都落ち」ではなく、師匠から受け継いだ精神を体現するための「攻めの選択」でした。
結果として、彼のRIZIN参戦はその後の日本格闘技界のV字回復に大きく貢献することになります。那須川天心選手とのキックボクシングマッチや、朝倉海選手との激闘など、日本中を巻き込むビッグマッチを実現させ、彼の選択が正しかったことを証明してみせました。
アメリカン・トップチーム(ATT)での進化と現在
UFCを離れた後も、堀口選手は強さを求めて進化を続けました。その拠点は日本ではなく、アメリカ・フロリダ州にある世界的な名門ジム「アメリカン・トップチーム(ATT)」です。
2016年初頭に単身アメリカへ渡り、現在に至るまでATTを拠点に生活しています。なぜ彼は日本に戻って試合をするのに、練習拠点はアメリカを選んだのでしょうか。
世界最高峰の練習環境を求めて
ATTには、UFC王者やランカークラスの選手が数多く在籍しています。軽量級の選手も豊富で、毎日が実戦さながらのスパーリングとなります。日本では、堀口選手のレベルに釣り合う練習相手を見つけること自体が困難になっていました。
「強くなるためには、強い奴らの中に身を置くしかない」。そのシンプルな哲学に従い、言葉の壁や文化の違いを乗り越えて環境を変えました。ATTには各分野の専門コーチが常駐しており、打撃、レスリング、柔術、フィジカルと、全ての要素を世界最先端の理論で学ぶことができます。
特に、ヘッドコーチであるマイク・ブラウン氏との出会いは大きく、堀口選手の戦術眼や試合運びはより洗練されたものになりました。空手のステップにMMAのトータル技術が融合し、穴のないファイターへと完成されていったのです。
同門のUFC王者との切磋琢磨
ATTには、現在のUFCフライ級王者であるアレッシャンドリ・パントージャ選手も所属しています。彼とはチームメイトであり、普段から肌を合わせる練習パートナーでもあります。
世界チャンピオンと日常的に練習できる環境は、自分の実力が世界でどの位置にあるのかを常に確認できることを意味します。「練習で互角以上にやれているなら、試合でも勝てる」。この確信が、再びUFCのベルトを目指す上での大きな自信となっています。
チームメイトたちも堀口選手の強さを認めており、「恭司はUFCのベルトを巻くべき選手だ」と口を揃えます。世界トップレベルのジムで「最強」の一角として認められていることこそが、彼の実力の何よりの証明です。
UFC復帰と「史上最強」への最終章
そして時は流れ、2024年から2025年にかけて、堀口恭司選手のUFC復帰が現実のものとなりました。RIZINで2階級制覇を成し遂げ、Bellatorでも頂点に立った男が、最後に目指すのはやはり「UFCのベルト」でした。
一度は手放したチャンスを、円熟味を増した今の実力で掴み取りに行く。これはまさに、彼自身のキャリアの集大成とも言える挑戦です。
忘れ物を取りに行く旅
復帰の理由はシンプルです。「自分が世界一であることを証明したい」。RIZINやBellatorのベルトも素晴らしいものですが、やはり世界中の誰もが認める「メジャーリーグ」はUFCです。
かつてDJに敗れたあの日から、心のどこかに引っかかっていた「UFC王者」という称号。それを手にするために、彼は安定した地位を捨てて、再び過酷な競争の中に身を投じることを選びました。
現在30代中盤となり、ベテランの域に入ってきましたが、そのスピードと技術は衰えるどころか凄みを増しています。怪我による長期離脱も経験しましたが、それを乗り越えた精神力も武器に加え、万全の状態でオクタゴンに戻ってきます。
本来の適正階級「フライ級」での勝負
今回のUFC復帰では、階級を本来の適正である「フライ級(56.7kg)」に定めています。RIZINやBellatorでは一階級上のバンタム級(61.2kg)で戦うことも多かったですが、体格差のある相手と戦うことは身体への負担も大きいものでした。
フライ級であれば、パワー負けすることはなく、彼の最大の武器であるスピードと瞬発力を最大限に活かすことができます。現在のUFCフライ級戦線は群雄割拠ですが、堀口選手の実績と経験は頭一つ抜けています。
復帰戦の相手として名前が挙がるタギル・ウランベコフのような実力者を倒し、最短距離でタイトルマッチにたどり着くこと。そして、かつてあと一歩で届かなかったベルトを日本に持ち帰ること。これが現在の堀口恭司選手が描く、明確なビジョンです。
まとめ:堀口恭司のUFC戦績は世界レベルの証

堀口恭司選手のUFC戦績と、そこに至るまでの背景について解説してきました。改めて要点を振り返りましょう。
【記事のポイント】
- UFC通算戦績は7勝1敗。勝率8割超えという圧倒的な記録を残している。
- 唯一の敗北は、伝説の王者デメトリアス・ジョンソン戦での「残り1秒」の一本負けのみ。
- 日本格闘技界の復興を掲げてUFCを一度離脱し、RIZINでその目的を果たした。
- 名門ATTに移籍し、世界王者クラスと日常的に切磋琢磨することで進化を続けている。
- 2025年、適正階級であるフライ級でUFC王座を奪還するための「最終章」が始動。
堀口選手のすごさは、単なる「過去のUFCファイター」ではなく、「現在進行形でUFCの頂点を狙える実力者」であるという点です。かつての7勝1敗という記録は、これから更新されていく通過点に過ぎません。
日本の格闘技ファンの夢を背負い、再び世界最高峰の海へ乗り出した堀口恭司選手。彼の拳が再びUFCの歴史に名を刻む瞬間を、私たちは目撃することになるでしょう。これからの戦いから、一瞬たりとも目が離せません。



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