「肘打ち(ひじうち)」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。格闘技の試合で見られる激しい攻撃技を思い浮かべる方もいれば、スポーツの試合中に偶発的に起こってしまう危険な反則行為を想像する方もいるかもしれません。
肘打ちは、人間の体の中で最も硬い骨の一つである「肘」を使った打撃であり、その威力は非常に強力かつ危険です。そのため、プロの格闘技でも厳格なルールが設けられていたり、球技などのスポーツでは一発で退場処分となったりすることも珍しくありません。
この記事では、肘打ちがなぜそれほどまでに強力なのかという体の仕組みから、各競技での扱われ方、そして万が一の護身術としての側面まで、幅広く解説していきます。
肘打ちの基礎知識:なぜこれほどまでに強力なのか
肘打ちは、拳を使ったパンチとは異なり、特有の破壊力と性質を持っています。なぜこれほど危険視され、また武器として重宝されるのでしょうか。まずはその身体的な構造と、打撃としてのメカニズムについて掘り下げていきましょう。
人体で最も硬い「骨」を武器にする
肘打ちの最大の武器は、その硬さにあります。肘の先端部分は解剖学的に「肘頭(ちゅうとう)」と呼ばれ、前腕にある「尺骨(しゃっこつ)」という骨の一部です。この骨は非常に密度が高く、人体の中でもトップクラスの硬度を誇ります。
拳(こぶし)で殴る場合、ボクサーや空手家は長い年月をかけて拳を鍛え上げ、骨折を防ぐためにバンテージやグローブで保護します。しかし、肘の骨は鍛錬をしていない一般の人であっても、最初から凶器のような硬さを持っています。そのため、防具なしで直撃すれば、相手の骨を折ったり、皮膚を容易に切り裂いたりすることが可能です。
この「生まれつきの硬さ」こそが、肘打ちが体重差や筋力差を覆す一撃になり得る最大の理由です。まさに天然のハンマーやナイフを腕に備えているようなものと言えるでしょう。
接近戦で発揮される「見えない」攻撃
肘打ちのもう一つの特徴は、攻撃の射程距離(リーチ)が極めて短いことです。相手と体が密着するような至近距離(クリンチ状態など)で真価を発揮します。パンチを打つにはある程度の距離と予備動作が必要ですが、肘は畳んだ状態からコンパクトに繰り出すことができます。
この「距離の近さ」は、防御側にとって脅威となります。相手の懐に入り込んだ状態から放たれるため、攻撃の軌道が見えにくく、反応するのが非常に困難です。視界の外から突然飛んでくる鋭い一撃は、ガードの隙間をすり抜けて顎やこめかみを捉えます。
また、動作が小さいため、攻撃後の隙も比較的少なくて済みます。相手に掴まれた状態や、壁際に追い詰められた状態でも、体幹の回転さえ使えれば強力な一撃を放つことができるのです。
鋭利な角度が生む「切り裂く」効果
格闘技の実況などで「肘でカットした」という表現を聞いたことはないでしょうか。肘打ちは、単に打撲を与えるだけでなく、鋭利な刃物のように相手の皮膚を切り裂く効果(カット)を持っています。
肘を鋭角に曲げると、骨の先端が尖った形状になります。この先端を相手の顔面、特に眉の上や頬骨のあたりに擦りつけるようにヒットさせると、皮膚が骨と骨に挟まれてスパッと切れてしまいます。
試合においては、この出血が勝敗を分ける大きな要因になります。たとえダメージで意識がはっきりしていても、傷口からの出血が目に入って視界が塞がれたり、傷が深すぎたりする場合は、医師の判断(ドクターストップ)によりTKO負けとなるケースが多々あります。
格闘技における肘打ちの種類と技術

肘打ちは、立ち技最強と言われるムエタイをはじめ、総合格闘技(MMA)や伝統的な空手など、多くの格闘技で使用されています。ここでは、競技の中でどのように使われているのか、代表的な技術を紹介します。
ムエタイ:「立ち技最強」を支える多彩な肘
タイの国技であるムエタイは、「八肢の芸術(Art of Eight Limbs)」とも呼ばれ、両手、両脚、両膝、そして両肘を駆使して戦います。ムエタイにおける肘打ち(ソーク)は非常に高度に体系化されており、あらゆる角度からの攻撃が存在します。
例えば、横から水平に薙ぎ払う「ソーク・タッド」、下からアッパーのように突き上げる「ソーク・グワッド」、上から鉈(なた)のように振り下ろす「ソーク・サップ」などがあります。これらは単独で使われるだけでなく、パンチのコンビネーションの最後や、首相撲(クリンチ)で相手をコントロールしている最中に繰り出されます。
ムエタイ選手は、相手のガードをこじ開けたり、前進してくる相手へのカウンターとして肘を使ったりする技術に長けています。特に、相手のパンチをかいくぐって眉間や顎に叩き込む技術は、一撃必殺の威力を秘めています。
総合格闘技(MMA)での活用と戦術
UFCやRIZINなどの総合格闘技(MMA)でも、肘打ちは重要な武器です。MMAでは立ち技だけでなく、寝技(グラウンド)の状態でも肘が使われる点が大きな特徴です。
「グラウンド・アンド・パウンド」と呼ばれる戦術では、相手を下に抑え込んだ状態から肘を落とします。拳でのパンチは、床に拳を痛めるリスクがありますが、硬い肘であればその心配が少なく、短い距離からでも体重を乗せて大ダメージを与えることができます。
また、ケージ(金網)際での攻防においても、相手を押し込みながら細かい肘打ちを当てて削っていく戦法がよく見られます。これにより相手の体力を奪い、出血を誘って試合を有利に進めることができます。MMAにおいて肘は、KO狙いだけでなく、試合の主導権を握るための戦略的なツールとしても機能しています。
空手などの伝統武術における「猿臂(えんぴ)」
日本の伝統的な武道である空手にも、肘打ちは「猿臂(えんぴ)」や「肘当て」という名称で存在します。空手の型(形)の中には、様々な方向への肘打ちが含まれています。
特徴的なのは、前方への攻撃だけでなく、後方や横方向への敵を想定した技が多いことです。例えば「後ろ猿臂」は、背後から抱きつかれた際や、背後に敵がいる場合に、後方へ肘を突き刺す技です。また、高い姿勢から落とす「落とし猿臂」は、相手の背中や首筋を狙う強力な技として伝わっています。
競技空手(ポイント制など)の試合では禁止されていることが多いですが、護身術や実戦を想定した古流の空手では、接近戦における極めて有効な技として稽古されています。
「12-6(トゥエルブ・トゥ・シックス)」のルール変更と論争
格闘技、特に総合格闘技(MMA)ファンの間で長年議論の的となってきたのが、通称「12-6(トゥエルブ・トゥ・シックス)」と呼ばれる肘打ちのルールです。このルールは近年、大きな転換期を迎えています。
垂直に振り下ろす肘打ちの禁止と解禁
「12-6」とは、時計の文字盤の12時から6時の方向へ、つまり「垂直に真下へ」振り下ろす肘打ちのことを指します。北米の統一ルール(ユニファイド・ルール)では、長らくこの軌道の肘打ちだけが「危険すぎる」として反則とされてきました。
この禁止ルールの背景には、「氷柱を割る演武を見て、あまりに危険だと判断された」という俗説があるほど、その破壊力が恐れられていました。しかし、多くの選手や専門家からは「他の角度からの肘打ちと科学的なダメージの差はない」「寝技の攻防で角度の判定が難しく、不当な反則負けを生んでいる」という批判が絶えませんでした。
こうした長年の議論を経て、2024年、ボクシング・コミッション協会(ABC)はついにこの「12-6エルボー」の解禁を決定しました。これにより、MMAの戦術やレフェリングに大きな変化が生まれることになります。
ルール変更が試合に与える影響
このルール変更は、特にグラウンド(寝技)の攻防に大きな影響を与えます。これまでは、上から相手を抑え込んでいる選手は、反則を取られないように肘の軌道をわざと斜めにする必要がありました。しかし、解禁後は真っ直ぐに体重を乗せた肘を落とせるようになります。
防御側にとっては、ガードの隙間を縫って落ちてくる垂直の肘を防ぐのが難しくなり、より厳しい展開を強いられるでしょう。また、レフェリーにとっても、微妙な角度の違いで試合を止めてビデオ判定を行う頻度が減り、スムーズな試合進行が期待されます。
ただし、団体や開催地によってはルールの適用時期が異なる場合があるため、観戦する際はその大会がどのルールセットを採用しているかを確認する必要があります。
球技スポーツにおける「肘打ち」:なぜ一発退場なのか
格闘技以外のスポーツ、特にサッカーやバスケットボールにおいて、「肘打ち(エルボー)」は最も厳しく罰せられる反則の一つです。ここでは、なぜ球技において肘がこれほど厳しく取り締まられるのかを解説します。
サッカーにおけるレッドカードの基準
サッカーにおいて、相手選手の顔面や頭部に肘を当てる行為は、たとえボールを競り合っている最中であっても「乱暴な行為(Violent Conduct)」や「著しく不正なプレー」とみなされ、レッドカード(一発退場)の対象となることが非常に多いです。
特に厳しいのが「意図的かどうか」の判断です。ジャンプしてヘディングをする際、勢いをつけるために腕を広げることは自然な動作ですが、その肘が相手の顔に入った場合、主審は「武器として使ったか」「不必要に激しく振ったか」を判断します。
近年ではVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の導入により、審判の死角で行われた肘打ちも映像で確認されるようになりました。ボールとは無関係な場所での報復行為としての肘打ちは、即座に退場処分となり、さらに複数試合の出場停止など重い追加処分が科されるのが一般的です。
バスケットボールにおける危険性とペナルティ
バスケットボールでも、肘打ちは非常に危険なファウルとして扱われます。特にリバウンド争いなどで、ボールを確保した選手がスペースを作るために肘を振り回す行為は「フレグラント・ファウル」の対象となります。
バスケットボールのフレグラント・ファウルにはレベルがあり、過度で接触が激しい場合は「フレグラント2」として一発退場となります。選手の顔の高さに肘があることが多いため、歯が折れる、鼻骨骨折、脳震盪などの深刻な怪我に直結しやすいからです。
NBAなどのプロリーグでは、試合後のレビューで悪質な肘打ちと認定されれば、高額な罰金や出場停止処分が下されます。選手生命に関わる怪我を防ぐため、審判は肘の動きに常に目を光らせています。
護身術としての可能性と注意点
肘打ちは、その威力と特性から、女性や体力に自信のない人が身を守るための護身術としても推奨されることがあります。しかし、実際に使用する際には大きなリスクと法的責任も伴います。
力の弱い人でも有効な理由
護身術で肘打ちが推奨される最大の理由は、「予備動作が小さくても威力が出せる」点と「自分の手を痛めにくい」点です。パニック状態で力任せにパンチを打つと、自分の手首や指を骨折してしまうリスクがありますが、硬い肘であればその心配は軽減されます。
また、暴漢に背後から抱きつかれたり、壁に押し付けられたりして腕を大きく振れない状況でも、肘であれば体幹を少しひねるだけで相手のみぞおちや顎に攻撃を届かせることができます。特に「後ろ肘打ち」は、視界のない背後の相手に対する有効な脱出手段となります。
使用する際のリスクと過剰防衛
しかし、肘打ちは「あまりに強力すぎる」という点がデメリットにもなり得ます。素人が護身のために振るった肘が、相手の急所(こめかみや眼球など)に当たり、失明や後遺症が残る大怪我を負わせてしまう可能性があります。
日本の法律において、正当防衛は認められていますが、相手の攻撃に対して反撃が過剰であると判断されれば「過剰防衛」として罪に問われることもあります。肘打ちは相手を制圧する以上のダメージを与えかねないため、あくまで「逃げるための隙を作る一撃」として認識し、執拗に攻撃し続けないことが重要です。
また、慣れていないと自分の肘の神経(尺骨神経)を強打してしまい、腕が痺れて動かなくなるリスクもあります。これは俗に「ファニーボーン」と呼ばれる現象で、打った本人が無力化してしまう可能性も考慮しなければなりません。
護身の基本は「逃げること」
肘打ちは強力な武器ですが、あくまで最終手段です。最優先すべきは、危険な場所から速やかに離脱し、安全を確保することです。技を使うこと自体を目的にしないよう心掛けましょう。
まとめ 肘打ちは「人体最強の武器」であり、その扱いは慎重さが求められる

ここまで、肘打ちの威力や各分野での扱いについて解説してきました。最後に要点を振り返りましょう。
肘打ちは、人体で最も硬い骨を利用した、極めて強力な打撃技です。その威力は格闘技の試合を一撃で終わらせるほどであり、同時に相手の皮膚を切り裂く鋭さも持ち合わせています。ムエタイやMMAなどの格闘技では、高度な技術として体系化され、ルール改正によりますます重要な戦術要素となっています。
一方で、サッカーやバスケットボールなどの球技においては、選手生命を脅かす危険な行為として厳しく禁止されており、一発退場の対象となります。また、護身術としても有効ですが、過剰なダメージを与えるリスクがあるため、法的責任を含めた注意が必要です。
観戦する側としては「スリリングな攻防を生む技」として、実践する側としては「取り扱いに責任を伴う強力な武器」として、肘打ちの特性を正しく理解しておきましょう。



コメント